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『本能寺の変』の遠因か?
〜 歴史のターニングポイントの一つ「本能寺の変」についての小考察 〜



■ 本能寺の変の遠因はなにか? ■


 歴史のターニングポイントは数多くあるが、「本能寺の変」はその中でも特に注目すべきものの一つであると思う。

 もし、「あの時、信長が殺されていなかったら、それ以後の歴史はどうなったか」と考えるだけで、様々な想像が沸いてくる。
 秀吉は天下を取れたか? 家康はどうか? 明治維新はかなり遅くなったかもしれない。もっとも、歴史に「もし」と言う言葉は無意味かもしれないが。

 しかし、そのような素朴な疑問を持ちつつ我家のルーツを辿っていくうちに丹波の戦国大名波多野秀治公の存在が浮かび上がった。

 多数の歴史家が様々な説を出しておられるが、信長から丹波攻略を急き立てられた明智光秀は思案のすえ母を人質に差し出してまで波多野秀治に講和を申し入れさせる策をとった。信長の領土安堵を約束に秀治は安土城へと出向いたが信長が光秀との約束を破り、波多野秀治を捕らえ処刑した。時に天正七年六月(1579年)のことであった。
 これを知った八上城の秀治の弟秀香ら一族は当然のごとく光秀の母を松に磔刑にした。


 この3年後の1582年に本能寺の変が起こった。
 すなわち、光秀の天下取りの野望とともに信長に対する怒りと憎悪が頂点に達していたことは間違いない。


羽多野正廣
2004.5.22


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